~~
黒澤明監督の不朽の名作「生きる」(昭和27年)の英国版リメーク「生きる LIVING」の脚本を手掛けたカズオ・イシグロ(68)。熱烈な映画ファンとして知られるが、黒澤監督のオリジナル版に出合ったのは11歳のときだ。多感な少年期に見た日本映画は、その後の人生に大きな影響を与えたという。イシグロが作品について語った。
1960年代、英国では日本映画に触れる機会がほとんどなかったという。「唯一見ることができたのが小津(安二郎)や黒澤作品で、それらは僕に大きなインパクトを与え、大人になってからも影響を受け続けている」
イシグロは11歳の時、隣町のグラマースクール(中等教育機関)まで電車で通学を始めた。駅のプラットホームや車内で見かけたのがリメーク版で名優、ビル・ナイが演じていた主人公のような英国紳士たちだった。
「ロンドンに仕事に向かう男性たちがまさにリメーク版の映画に出てくるような感じだった。みなピンストライプのスーツに山高帽を被り、ブリーフケースに傘を持ち、同じ新聞を手にしていた。その姿を見ながら『将来、僕もああなるんだろうな』とぼんやり思っていた」
そんな中で出合ったのが、志村喬(たかし)が主演した黒澤の「生きる」だった。「あの映画を見て、スーパースターにならなくても、何か傑出したことをしなくても、自分ができる限りの努力をすれば、しっかりと人生を100%生きることができるというメッセージを受け取った」
◇
大人になってから「生きる」の主人公について、ある思いを抱くようになったという。「主役をもし他の役者、たとえば笠智衆(りゅう・ちしゅう)さんが演じたらどうだっただろうか。小津監督の『秋刀魚(さんま)の味』で見せた感情を抑制した演技だったら、作品のトーン自体も変わってくるのではないか」
ある日、ふと「笠智衆さんに値するような偉大な役者が英国にもいるじゃないか」と、ナイが浮かんだという。プロデューサーに最初に掛けた言葉も「黒澤監督の『生きる』のリメーク版を作ろう」ではなく、「ビル・ナイで『生きる』を作らないか、だった」と明かす。
◇
リメーク版には、黒澤作品へのリスペクトを強く感じさせる場面が度々出てくる。オリジナル版では、主人公が雪の降る夜更けの公園でブランコに揺られながら、歌を口ずさむ名シーンが知られるが、リメーク版にも同様の場面が登場する。
一方、異なる脚色も施されている。オリジナル版では主人公のささやかな善行は結局、職場では引き継がれず、元通りの〝何もしない〟役場の日常に戻る。しかし、リメーク版では、主人公の残したレガシーを受け継ぎ、次の世代に伝えていく若いキャラクターが登場する。
「ある種の楽観主義的な希望を持った空気を取り入れた」。エンディングには、イシグロの思いが込められている。
筆者:水沼啓子(産経新聞)
■カズオ・イシグロ 1954年、長崎市生まれ。5歳のときに英国に渡る。成人後、英国に帰化。89年、小説「日の名残り」で英国で最も権威ある文学賞のブッカー賞受賞。2017年、ノーベル文学賞受賞。18年に旭日重光章受章。